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13     キャリア転換に関する書き方

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 新政権が始まった影響で、解雇された、もしくはその危機に晒されている方が全米各地で増えています。複数の省庁で連邦政府職員が削減され、政府からの資金凍結により、非営利団体の財政も厳しくなっています。DEI(多様性・公平性・包摂性)の促進に関する職は、官民の双方で削減されていることが報じられています。これまで熱意と時間を注いできたキャリア全体が揺らぎ、新しい方向性を模索せざるを得ない方も多いでしょう。今回は、そういった困難な状況の中、キャリア転換について前向きな形でカバーレター等で書く方法を取り上げます。  仕方なく応募する人より、自分の意志でチャンスを探しに来た人の方が雇う側には魅力的に映ります。最初に出すカバーレターでは、While I have worked with government agencies for most...

133   H-1B抽選企業登録

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   3月7日にH-1B抽選のための企業登録の受付が始まります。H-1Bとは1990年に設けられた短期就労ビザのことで、基本的には4大卒者や同等資格保持者が対象となります。さらに、そのポジションは、大学レベルの特定の専攻分野を通して習得した知識や技術が必要であることが条件です。 【年間枠制限】  H-1Bの年間発行数には制限があり、一年間に6・5万枠にの一般枠があり、さらにアメリカの修士号以上の学位保持者には追加で2万枠が設けられています。一般枠中6800枠はチリとシンガポール国籍者に割り当てられます。  【オンライン登録システム】  申請は、H-1Bの就労開始日である10月1日の6ヶ月前の4月1日から受付が始まります。しかしながら、ここ数年H-1Bの申請者数は年間枠を大幅に上回っているため、新規申請者はオンライン上の無作為の抽選で選ばれます。雇用主は3月7日東部時間午後12時から3月24日東部時間午後12時までの間に移民局のmyUSCIS オンライン・アカウントに会社情報とH-1B申請社員の情報を登録します。  登録費用は今年から申請社員一人につき10ドルから215ドルに値上がりしました。ここ数年間はおよそ24%〜45%前後の当選確率となっています。米国の修士号や博士号保持者は一般枠で当選しなければ、再度大学院枠の抽選に掛けられるので、大卒者よりは当選確率が少し高くなります。    【H-1B申請】  当選したら、雇用主は4月から6月の間にH-1B請願書類を移民局に提出します。6月までにH-1Bの年間枠が償却されなければ、7月に第2次抽選があります。第2次抽選に当選すれば8月から10月の間にH-1Bを申請することができます。   【H-1B年間枠免除】   H-1Bの延長申請、過去6年間にH-1Bを取得した人、また、非営利団体の大学機関、大学機関と連携プログラムがある非営利機関(例えば、大学からインターン生を受入れている病院等)、もしくは政府や民間の非営利研究施設等は、年間枠免除の対象となるので、年中いつでもH-1Bを申請することができます。ただ、H-1B枠免除団体からH-1B枠対象企業へ転職するときは、H-1B年間枠の対象となるので、H-1B抽選に当選しなければなりません。   【複数企業・転職】  H-1Bはスポンサー企業での就労に限定されます。転職希望者は、新規雇用主が新たにH-1B申請を移民局に提出します。H-1Bはパートタイム申請も可能なため、雇用主が複数いる場合は、それぞれの雇用主がH-1Bを申請することで、同時に複数企業で就労することもできます。  また、H-1B枠免除団体を通してH-1Bを取得していれば、H-1B枠免除団体での雇用が続く限りは、H-1B枠対象企業が2つ目のH-1Bを同時雇用主として申請することもできます。ただし、この場合H-1B枠免除団体での雇用が終了した時点で、2つ目のH-1Bも無効となってしまいます。H-1B枠対象企業のみで就労するためには、H-1B抽選に当選しなければなりません。   【申請料金】  H-1Bの初回申請費用は、基本申請料金780ドル(小規模雇用主や非営利団体は460ドル)、詐欺防止費用500ドル(初回申請のみ)、ACWIA追加申請料金 1500ドル(社員25名以下の場合は750ドル)の他に、昨年から新たにAsylum 費用600ドル(小規模雇用主は300ドル)が加わりました。H-1B枠免除対象の非営利団体はACWIA追加申請料金とAsylum費用が免除されます。  また、社員が50名以上いる場合、社員の50%以上がH-1BやLビザ保持者であれば、従来の申請費用に加え4000ドルの追加申請費用が課せられます。特急申請を希望する場合は、特急申請料金2805ドルを支払えば15営業日(3週間)以内の審査となります。なお、移民局のフォームや申請費用は随時変更することがあるので、必ず移民局のウェブサイトで最新の情報を確認する必要があります。  本ニュース記事に関する注意事項(DISCLAIMER)  本雇用・労働・移民法ニュース記事は弁護士として法律上または専門的なアドバイスの提供を意図したものではなく、一般的情報の提供を目的とするものです。また、記載されている情報に関しては、できるだけ正確なものにする努力をしておりますが、正確さについての保証はできません。しかも、法律や政府の方針は頻繁に変更するものであるため、実際の法律問題の処理に当っては、必ず専門の弁護士もしくは専門家の意見を求めて下さい。  テイラー・イングリッシュ・ドゥマ法律事務所および筆者はこの記事に含まれる情報を現実の問題に適用することによって生じる結果や損失に関して何ら責任も負うことは出来ませんのであらかじめご承知おき下さい。  大蔵昌枝弁護士プロフィール  ジョージア州弁護士。アトランタにあるTaylor...

2024年度確定申告における税制改革および注意点

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I. 一部の税額控除限度額が増額  2024年度の Earned Income Tax Credit(勤労所得税額控除) の限度額は、対象となる子供が 3 人以上いる場合、2023 年度の...

132    永住権Priority Dateの後退

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 米国永住権(通称“グリーンカード”)の申請には、家族スポンサー、雇用主スポンサー、抽選永住権、亡命者による申請などがありますが、各過程の審査時間に大幅な遅れがみられます。また、Priority Date (PD、*文末参照) の大幅な後退により、PDが回ってくる前に自分の滞在資格が失効してしまい、アメリカに滞在できなくなる人が増えるなど、新たな問題が浮上しています。 【Labor Certification】  雇用主スポンサー申請の中でも、労働局の審査を経る必要のある雇用主スポンサーによる第2申請枠と第3申請枠は、最近の労働局の審査遅延も影響して、全体の時間(平均賃金、求人広告、LC審査)が12+ヵ月から24+か月ほどと以前に比べ倍以上かかるようになりました。 【雇用主スポンサー申請】   Labor Certification承認後は雇用主による移民スポンサー申請を移民局に提出します。この審査時間は現時点でおよそ6〜8か月ほどかかっています。特急サービスを利用すれば3週間以内の審査となります。第1優先枠の国際役員・管理職枠と第2優先枠の国益免除 (NIW) の枠の特急サービスは45日以内の審査となります。 【永住権申請】  雇用主スポンサー申請承認後は、永住権申請までに待ち時間がないかPDを確認します。日本人の場合は1月時点で第1優先枠は待ち時間はなし、第2優先枠はPDが2023年4月1日、第3優先枠はPDが2022年12月1日あるいはそれ以前の人の申請を受け付けています。I-94の滞在期限が失効する前に自分のPDが回ってきたら永住権の申請 (I-485)を提出することができます。申請中はアメリカ国内に滞在して審査を待つことができます。審査時間は以前に比べ非常に長引いており、現時点で平均16カ月から30+カ月ほどかかっています。  米国内での永住権申請は、就労許可書と旅行許可書も一緒に申請できるので、申請中にI-94が失効したら、就労許可が来るのを待って就労を再開することができます。また、旅行許可書が届いたら国外に出ることもできます。入国時は旅行許可書を見せて入国することになり、入国後は短期就労ビザではなく、就労カードを使った就労に変わります。 【滞在資格の失効】  H-1BとLビザは移民する意思を示してよいビザなので、永住権申請中の延長申請や出入国が可能です。H-1B保持者の場合は6年満期が来ても、Labor...

12    苦情の述べ方

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 2025年が明けてまだ一か月とは思えないほど、災害、事故、政変など、不安を掻き立てる出来事が世界各地で続いています。邪気を払うため、例年以上に節分の豆まきに力を入れるのもよいかもしれません。ただ、実世界では、嫌な相手に豆を投げつけて追い出すことはできません。人間には、改善を求めて苦情を述べたり、注意をしたりする方が適切です。  今回は、上司や顧客など、丁寧に扱わなければならない相手にどのように論理立てて気持ちを伝え、行動を促すかを取り上げます。  感情的にならないよう、最初は口頭ではなく文章での連絡がよいかもしれません。また、急に本題に入るのではなく、日頃お世話になっていることへの感謝などを冒頭に述べるとよいでしょう。その後、本題の段落は、I’m emailing to ask about the HR announcement that...

一人ひとりと向き合う仕事を求めて【後編】

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圓岡悦子さん (鍼灸師・看護師、クリアースプリング鍼灸院経営)  シルバースプリングにクリアースプリング鍼灸院を昨年開設した鍼灸師の圓岡悦子さん。ここに至るまでの道のりを訊いた。(聞き手・本紙編集長武末幸繁) ここにたどり着くための道のりだったと思える  ーメリーマウント大を出られてからは?  卒業後は、ジョンズ・ホプキンス病院の血液腫瘍科病棟で、1年間ほど看護師として働きました。その後、2001年にモンゴメリー郡の学校保健課に就職し、スクールナースとして働き始めました。2000年に最初の結婚をして、4年後に息子が生まれ、出産後8週間で仕事に復帰しました。息子を朝早くから保育所に預けながらの仕事復帰は大変でした。ただ、スクールナースの仕事は好きでした。特に最後に担当した高校では、ウエルネスセンターといって、保健室、クリニックと青少年育成センターが併合されている特別な設定で、医療スタッフ、メンタルヘルス・セラピスト、青少年育成カウンセラーなどいろいろな職種の方々と共にチームで生徒さん達をサポートしました。とても忙しかったですが、やりがいのある仕事でした。  ーやりがいがあったけど辞められた?  2013年に、それまでの経験が評価され、同じ学校保健課でナースマネジャーとして働くという新たなチャレンジの機会が与えられました。当初はやりがいを感じ、意味のある挑戦だと信じて頑張っていましたが、次第に管理という仕事自体に疑問を感じ始めました。改めて自分を見つめなおし、やはり私が満足を得られるのは、間接的にではなく、直接患者さんやクライアントと関わる仕事なのだということに気づきました。  この頃から少しづつ方向転換は始まっていたと思います。第一歩として管理から離れることを決意し、2016年に地域保健課に移り、3年ほど保健師として働きました。  ー鍼灸師になろうと思ったのはなぜですか?  両親の影響もあり、元々東洋医学には興味がありました。実は、メリーランド・ユニバーシティー・オブ・インテグレーティブ・ヘルス(MUIH) へは、入学を決意する5年前に訪ねて行った事があるのです。その時、東洋医学、アユルベーダ、ヨガセラピーをはじめ、いろいろなホリスティックヘルスの分野が学べることを知りました。その時点では息子が小さかったこともあり、断念しました。後に背中を押されるきっかけになったのは、鍼灸師のロビン・ゴードン先生に出会ったことが大きいです。花粉症に悩まされて治療を受けに行ったわけですが、毎週通っていると鍼の力ってそれだけじゃない、あらゆる面でサポートになるということがわかってきました。仕事上のストレスが溜まっている時も鍼治療を受けて心が落ち着き、新たな気持ちで難関に立ち向かうことができました。  やっぱり心と体は表裏一体で、体が良くなれば心も楽になってくるし、心が元気になってくると体調も良くなる。私がやりたかったのはこういった事の手助けをする事だったんだと感じるようになりました。とは言え、長い間かけて確立した職業を離れ、新しい分野に飛び込むというのは、正直怖かったです。それでも、最終的には2019年に思い切って仕事を辞め、MUIHの大学院に入学しました。  その後3年半ほど学業に専念し、2022年に卒業して、鍼の免許を取りました。そして2023年の初め、鍼灸院を開いたわけです。選んだと言いますか、振り返ってみれば、それまでの色々な経験も、ここにたどり着くための道のりだったんだなという気がします。患者さんと向き合って、その方の苦痛が少しでも和らぎ、より健康に生きていけるようにお手伝いすることは本当にやりがいがありますね。 心と体の総合医療鍼治療を普及させたい  ー診療はどういう感じなのでしょうか。  もちろん鍼とお灸が中心ですが、カッピングや遠赤外線ランプを併用したり、必要に応じて電気鍼療法も使っています。鍼といえば、一般的には痛みの治療がよく知られているようですが、実はもっと広範囲に適応できるのです。例えば、慢性疲労、不眠症、生理不順、更年期障害、不安症状、消化器系や呼吸器系疾患などです。鍼のいいところは、例えば膝が痛くて来られたとしても、膝の治療が進む過程で、気持ちが軽くなったとか、夜眠れるようになったとか、エネルギーが湧いてきたなど、その他の良い効果も徐々に現れてくるところだと思います。それは、鍼治療がただ単に、部分的な支障を取り除く事だけに焦点を置いているのではなく、その方全体がより健康になり、ご自身の自然治癒力を最大限に生かせるようお手伝いする事も目的としているからだと思います。先ほどお話しした、心と体が表裏一体だという事は、日々患者さんと向き合わせていただく中で新ためて強く感じることですし、治療の指標として大切にしています。  ー患者さんはどんな方が多いですか?  いろいろな年齢層の方がいらっしゃいます。鍼に恐怖心を持っていらっしゃる方にも、その方がリラックスできる方法で対応させていただいています。日本人の鍼灸師を探して来られることもあり、今のところ患者さんの約3割が日本の方ですね。  米国ではここ20年くらいの間に鍼治療への理解がより深まってきていると思います。研究発表なども増えていますし、WHO(世界保健機構)も100種類を超える疾患や症状に、鍼の適応を奨励しています。私の鍼灸院にも、お医者さんから鍼を勧められて来たという患者さんがよくお見えになるようになり、健康保険が使える場合も多くなってきています。これからももっと理解が深まり、より多くの方が気軽に鍼治療が受けられるようになっていくといいですね。  ーありがとうございました。 圓岡悦子(まるおか・えつこ) プロフィール  1966年、山口県山口市生まれ。1988年、山口赤十字看護専門学校卒業。看護師として地元の日赤病院に勤務。1992年のセビリア万博で国際赤十字のボランティア活動。国際救護員としてのトレーニングを受け、93年には公衆衛生の仕事でスリランカに半年間派遣される。96年、米国に留学し、メリーマウント大学を99年に卒業。看護学 学士号取得。ジョンズ・ホプキンス病院勤務を経て、モンゴメリー郡の学校保健課に入りスクールナースを12年間務める。その後、3年半、学校保健課のナースマネジャーとして勤務、3年間地域保健課勤務を経て、2019年にメリーランド・ユニバーシティ・オブ・インテグレーティブ・ヘルス(MUIH)に入学し鍼灸や東洋医学を学び、鍼の修士号取得。卒業後、23年にシルバースプリングにクリアースプリング鍼灸院を開設。家族は夫と息子一人。 鍼灸院のウェブサイトはwww.clearspringacupuncturemd.com

11    連帯感の表明の仕方

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  12月は通常、ホリデーパーティーや忘年会に出たり、家族と時間を過ごしたりする楽しい時期です。しかし今年は、特に米国に住んでいれば、来年に向けて不安を抱えている方も多いでしょう。先月次期大統領が決まったことで、早くも女性や黒人の方に対する差別が学校の子供たちの間でも蔓延していると報じられています。政治的意見はどうあれ、マイノリティーである限り、私たちの誰もが憎悪や暴力の対象になりかねません。今回は、こういった状況でどのように互いを慰め、連帯感を表明すればよいかについて取り上げます。  米国における政治的分断は悪化する一方ですが、普段付き合いのある人と大体考えが似ているのは、悩みを共有しやすいという意味ではありがたいことです。具体的な話に入るほどの親しさでなくとも、ちょっとしたやり取りの中で、There’s a lot going on, but I hope you’re...

一人ひとりと向き合う仕事を求めて【前編】

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圓岡悦子さん (鍼灸師・看護師、クリアースプリング鍼灸院経営)  シルバースプリングにクリアースプリング鍼灸院を昨年開設した鍼灸師の圓岡悦子さん。ここに至るまでの道のりを訊いた。(聞き手・本紙編集長武末幸繁) 看護師だった25歳の時赤十字での活動が転機に  ー日本で看護師だったそうですね。  はい。私は山口県山口市生まれですが、地元の高校を卒業後、看護学校に入り看護師になりました。看護の道を選んだ主なきっかけは、高校卒業前、祖母が末期癌の診断を受け、闘病中の祖母の苦しみを、何とか和らげてあげたいと強く感じたことです。また、背景には、私が中学校の頃に母が准看学校に通い始め、資格を取って准看護師として働きながら、私たちを育ててくれたということもあると思います。  看護学校卒業後、地元の日赤病院で看護師として働き始めました。そして1992年、25歳の時、日赤の本社からスペインのセビリア万国博覧会、国際赤十字・赤新月パビリオンでのボランティア募集のチラシが回ってきたのです。まさかとは思いながら思い切って応募したところ運よく選ばれたのが、すべての始まりだった気がします。  参加には、最低限英語が喋れることが条件だったので、出発に向けて一生懸命勉強しました。それでも、実際にその生活に飛びこんだ時は苦労しました。ユースホステルで生活を共にしたのは、世界各国から集まった100人のボランティアでした。最初のうち、言葉が聞き取れないのが何より辛かったです。大勢の中にいても孤独を感じることも多くありました。そうするうちに、少しづつ馴染んでいき、2か月間の滞在中、なんとかコミュニケーションが取れるようになりました。  セビリア万博での活動は、世界各国から訪れた一般人に国際赤十字赤新月連盟と、赤十字国際委員会の理念や活動を広める仕事でした。パビリオンの前で、歌やパントマイムを通して活動を紹介したり、パビリオン内にお客さんを案内したりしました。  この企画のもう一つの目的は、共同生活とグループ活動を通して、ボランティア同士がつながりを強め、国際協力の必要性を身近に感じ、将来の活動に生かしていくことだったと思います。私も実際、すごく感化されました。一緒に生活する同年代の仲間達から、それぞれの母国での紛争や、厳しい貧困の状況などの話を直に聞くことは、ニュースを見るよりも格段に現実的で、身に迫るものがありました。将来私も、最低限の安全や健康も保障されていない国々の人の為に、何かをしてみたいという気持ちが高まりました。  帰国後、日赤の本社で国際救護員としてのトレーニングを受けて、派遣員として登録しました。その後、実際に派遣の依頼が来て1993年12月から翌年5月までの6か月ほど、スリランカに公衆衛生の仕事で派遣されました。私は、コロンボにあった連盟代表部に所属し、保健代表(プライマリーヘルスケア担当)として、仕事をしました。直接の上司はフィンランド出身の方でした。仕事は基本的に英語で行いました。地方を訪ねる時は、その地域の赤十字支部の職員、地域保健委員の方たちと協力して仕事をしていましたので、その方たちが現地語との通訳も兼ねてくださいました。  ー公衆衛生の仕事とはどのようなものだったのですか。  私たちはプライマリーヘルスケアというプロジェクトに携わっていました。そのプロジェクトでは、スリランカの中でも特に貧しく医療を受ける機会の少ない36地域が選ばれていて、その地域の住民の健康増進を促すのが目的でした。その為、安全な飲料水が手に入るように、コミュニティーの井戸を作ること、各家庭にトイレを設置することなどをはじめ、あらゆる具体的な企画がありました。知識普及も重大な要素で、家庭訪問や母親学級なども企画に含まれていました。  ところが、これらの企画の進行が滞っているのが問題でした。私の主な仕事はスリランカの各地に散在する、プロジェクト対象地域を訪ねて行って、企画の進行状況の把握と停滞の原因の調査をして、代表部に報告することでした。対象地域はコロンボから、遠いところだと車で9時間かかるところもあり、私はドライバーと二人だけで、遠距離の旅を繰り返す日々を過ごしました。時には、紛争地域内まで足をのばすこともありました。  難しかったのは、地域のスタッフやボランティアの活動意欲の低下でした。企画の進行中、予算などの問題が生じて計画倒れになり、スタッフが失望するケースが少なくないのも一つの理由でした。私は地域で調査した結果をこまめに代表部に報告しました。代表部ではそれを一つ一つとりあげ、解決方法を模索し、企画の調整をしてくれました。その結果、解決策や新たな援助が地域に届くにつれてプロジェクトの滞りが少しづつ改善していきました。  こうした、調査、報告、会議、問題解決、地域への支援という一連のサイクルを繰り返す経験を通して、私は人々の健康増進への意欲づくり、意欲維持について深く考える機会が与えられた気がします。そのことが、後になってスクールナース、地域保健、最終的には鍼灸師の仕事に携わっていく上での基盤になったと思っています。 米国に行くことを決意母親に助けられ無事卒業  ー日本に戻られてからはどうされたのでしょうか。  スリランカに滞在中、将来も同じような仕事を続けたかったので、上司に相談したところ、彼女は、看護、または公衆衛生や国際保健の分野で学士、さらには修士を取ることを勧められました。また、英語で勉強できる場所がいいともアドバイスしてくれました。実際に、スリランカでの仕事は、相当量の報告書を英語で書かなければならず、辞書を引きながら、睡眠を削っての報告書作成は、かなりの苦労でした。自分でも、語学力を磨いて、より良い仕事ができるようになりたいと思っていましたので、その頃から留学のことは考えていました。  ポストミッション・インタビューではジュネーブの国際赤十字赤新月連盟本部にも行きました。本部の方も親身になってアドバイスをしてくださいました。とは言え、日本に帰った時点では、留学とは夢のような話でした。日赤病院で働きながら、2年間かけて地道に準備をしました。  インターネットもなかった時代なので、どこから手を付けていいのかもわかりませんでしたが、とりあえず書店で留学マニュアルを手に入れました。あとは、ジュネーブで勧められた大学や、紹介していただいた人物に、手書きの手紙も国際郵便で送りました。今の時代では、信じられないような話なのですが、日数がかかっても丁寧に手書きでお返事を下さった方が何人かいらっしゃり、そうしたことが、くじけそうになった時の支えになりました。  最終的にはまずはアメリカに行こうと決心し、最初はUDC(ザ・ディストリクト・オブ・コロンビア大学)から始めました。1学期終えたところでアメリカ・カトリック大学に編入しました。条件がそろい次第、試験を受け、こちらのRN(レジスタード・ナース)という看護師の免許を取得しました。その後、バージニアのメリーマウント大学の看護学部に編入して1999年に卒業しました。  ー留学中の生活費はどうされていたのですか。  主には母が助けてくれました。私の留学に関しては、不安や迷いもあったと思いますが、少ない収入をやりくりして、奨学金を借りたり返したりしながら援助してくれました。私も当時、日本のグッズを売るお店で働いたり、ベビーシッターをしたりして、わずかな収入を得て生活の足しにしていたのですが、母の援助がなければあの頃の生活と大学卒業は実現しなかったし、今の私もなかったと思います。母にはとても感謝しています。(以下、次号に続く) 圓岡悦子(まるおか・えつこ) プロフィール  1966年、山口県山口市生まれ。1988年、山口赤十字看護専門学校卒業。看護師として地元の日赤病院に勤務。1992年のセビリア万博で国際赤十字のボランティア活動。国際救護員としてのトレーニングを受け、93年には公衆衛生の仕事でスリランカに半年間派遣される。96年、米国に留学し、メリーマウント大学を99年に卒業。看護学 学士号取得。ジョンズ・ホプキンス病院勤務を経て、モンゴメリー郡の学校保健課に入りスクールナースを12年間務める。その後、3年半、学校保健課のナースマネジャーとして勤務、3年間地域保健課勤務を経て、2019年にメリーランド・ユニバーシティ・オブ・インテグレーティブ・ヘルス(MUIH)に入学し鍼灸や東洋医学を学び、鍼の修士号取得。卒業後、23年にシルバースプリングにクリアースプリング鍼灸院を開設。家族は夫と息子一人。 鍼灸院のウェブサイトはwww.clearspringacupuncturemd.com

10   感謝の言葉に対する回答の仕方

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 11月の米国はサンクスギビングの時期。近年、社会的には先住民をめぐる歴史を見つめなおす機会にもなりつつありますが、家族や友人など、親しい間柄においては、今も七面鳥やパンプキンパイを囲んで団欒を楽しむ機会となっています。おいしい食べ物や温かい家族などへの感謝の気持ちを思い起こすこの時期は、お互いに「ありがとう」と伝える機会が増えます。そこで今回は、感謝の言葉に対し、どのように丁寧に回答するかを取り上げます。  まず、「確かに相手の役に立てた」と謝意を素直に受け止める場合。誰もが最初に学ぶYou’re welcome. は、どちらかというと目上の人が若い人や部下などに使う言葉で、友人同士ではそこまで言いません。It’s my pleasure. はお客様や取引先にも言える、若干堅苦しい表現です。少し崩したI’m glad to be...

8   関係の改善の仕方

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 朝夕が涼しくなってきた秋口は、夏休みが終わり、本格的に授業や仕事が再開する時期です。心機一転し、これまで慢性化していたことにも新たな気持ちで取り組めます。苦手な同僚や隣人に日々悩んできた人も、夏の間に職場や家を離れてリフレッシュし、関係をどう再構築するかについて考えられたかもしれません。何事もなかったかのように、徐々に関係を修復できる場合もありますが、仲良くしたいという意思を明確にした方がよい相手もいます。そこで今回は、苦手な人との関係の改善の仕方を取り上げます。  まず、出会って比較的間もないものの、お互い第一印象が悪い場合。たとえば、新しく来た隣人の家から終始ガンガンとドラムの音が聞こえてきたら嫌でしょうし、「静かにしてほしい」と注意ばかりしていたら先方からもうるさがられて、関係は悪化する一方です。そのような時は、I feel that we started off on the wrong...