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 第5回 病気や差別から子どもを守るために

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 編集長インタビュー(後編) 髙井明子さん 公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン専務理事・事務局長  子どもの権利を保障するために、日本をはじめ世界約110カ国で、緊急・人道支援や保健・栄養、教育などの分野で活動を行う非営利の国際組織、セーブ・ザ・チルドレン。9月号に続き、公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの専務理事・事務局長髙井明子さんへのインタビュー(後編)をお届けします(編集部) 当事者の言葉に圧倒共に声をあげること  ーHIV陽性者支援のボランティア活動は、どのような内容だったのでしょうか。  私が関わったのは、医療や制度に直接かかわる専門的な領域ではありませんでした。地域のコミュニティー活動を支えるような、日常の延長線上にある取り組みが中心でした。当時は大学院に通いながら、NPO「ぷれいす東京」(https://ptokyo.org/)の活動を手伝っていました。すでに治療薬は少しずつ普及し始めていたものの、偏見や差別は根強く残っていました。だからこそ、当事者自身が声をあげ 、仲間とつながれる場をつくることが非常に重要だったのです。私は資料作成や会議運営の裏方を担いながら、時にイベントでスピーチを聞き、当事者の言葉が持つ力に圧倒されました。日本国内の活動だけでなく、アジアのHIVコミュニティーを結びつける国際会議にも参加し、運動の広がりを肌で感じました。活動を続けるなかで、「支援する」ではなく「共に声をあげる」ことの意味を学びました。  ー その後、国際機関に進まれますね。  日本で政策分野の仕事に携わりたいと思っても、当時の私には資格も肩書もなく、なかなか機会はない、という気がしていました。27歳、専門職としてのキャリアはなく、就職口は特に探していなかったので。そんなとき、外務省が若手を対象に国連職員を育成する新しいプログラムを始めたと知りました。世界をこの目で見てみたい、現場に立って確かめたいという思いが募り、迷わず応募しました。運良く選ばれ、2000年から国連人口基金に勤務することになったのです。当初は3年間の予定でしたが、気づけば11年間。ニューヨーク本部に6年半、その後ベトナム事務所に赴任しました。  ー業務内容はどのようなものだったのですか。  私の肩書は「技術官」。聞き慣れないかもしれませんが、要はプログラムを調整するしたり、技術的な支援をする仕事です。予算管理や企画立案を進めながら、政府、NGO、現地スタッフ、国際機関など多様な関係者の意見を取りまとめ、合意を形成していく仕事です。華やかさはありませんが、私は人と人との考えをすり合わせる地道な作業にやりがいを感じていました。会議室での議論はしばしば長時間に及び、時には激論になることもありました。それでも最後には「あなたがいて助かった」と言われる瞬間があり、それが自分の支えとなりました。  ー 国際的な職場で苦労はありませんでしたか。  言葉の問題は常にありました。共通言語は英語ですが、ネイティブはむしろ少数派。相手がどんな文化的背景を持ち、どういうニュアンスで話しているかを汲み取らなければ、同じ英語でもまったく違う意味になってしまう。初めは戸惑いましたが、やがて流暢さより「説得力」が大切だと気づきました。ゆっくりでも、筋道立てて話す方が人に届く。語学力不足より、どう伝えるかを磨くことが重要だったのです。  ー 特に印象に残っている経験はありますか。  ベトナム勤務のときのことです。国連のインターナショナル・スタッフ(国際職員)として赴任しましたが、同僚のベトナム人スタッフから「アジアの仲間」として受け入れられたのが嬉しかった。食事の場に招かれ、ベトナム語が分からないのに、なぜか仲間に入っていたんです。ヨーロッパ出身の同僚には得られない経験だったと思います。彼らから「あなたならわかる」と声をかけられたとき、文化的な近さが信頼につながるのだと実感しました。これは日本人として働く大きな強みでもありました。 子どもの言葉が社会に届く瞬間  ー2011年、東日本大震災が起きます。  当時、私はイエメン事務所に赴任していましたが、2010年末からアラブの春が始まり、治安悪化で国外退避が勧告されていました。ちょうど休暇で滞在していたタイで震災の報道を目にしました。東北の町が津波で一瞬でのみ込まれる様子に言葉を失いました。「いま自分にできることは何か」と、すぐに帰国を決意しました。  ー セーブ・ザ・チルドレンに連絡されたのはなぜですか。  1995年に阪神淡路大震災が起きたとき、ボランティアとして活動しました。そのとき、海外からの支援をどう調整するかが一つの課題だったことを覚えていました。国連で培った調整力を日本の緊急支援に生かせるのではないか。そう考え、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンに「何か手伝わせてほしい」とメールを送りました。結果的に、海外事務所と日本スタッフの橋渡し役として参加することになったのです。国際支援団体が入ると、日本的なやり方との間で誤解が生じやすい。そこをうまくつなぐのが私の役割でした。  ー活動のなかで最も大変なことはなんですか。  人々の「声」をどうすくい上げるかです。日本では「こんなことを言っても仕方がない」と、思いを口に出さない人が多い。しかし支援の形は、その声を聞かなければ見えてきません。もちろん全ての要望を叶えることはできません。けれど、意見が採用されなかったからといって、人そのものが否定されたわけではない。そこを丁寧に伝えながら、安心して声を出してもらえる環境を整えることですね。  ーやりがいを感じる瞬間はどんなときですか。  やはり子どもたちの声を直接聞けたときです。能登半島地震では、被災した子どもにアンケートを実施し、その思いを集めて社会に届けました。東日本大震災でも同じ取り組みをしました。「家がなくなった」「友達と会えない」「将来が不安」——そうした声は大人が代弁するのではなく、子ども自身が発信することに意味があります。私は常に裏方ですが、そのプロセスを支え、子どもの言葉が社会に届く瞬間に立ち会えることが最大のやりがいです。  ーHIVの活動と、子ども支援の仕事はつながっているのでしょうか。  強いつながりを感じています。HIVの現場では「当事者参加」が何より大切だと学びました。同じように、子どももまた当事者です。権利を持つ主体として、子ども自身が社会に声を届ける。その仕組みを整えることは、私の原点と直結しているのです。  ー最後に、読者へのメッセージを。  社会を変えるためには声を上げることが必要だと思います。大切なのは、まず「声をあげる」ことです。自分の経験や立場から語ることが、必ず社会を少しずつ変えていきます。少しずつでも社会が変わるだろうと、そう信じて一歩を踏み出してほしい。たとえ小さな一歩でも、「声をあげる」ことで社会を少しずつ動かす力になります。勇気を出して、まず一歩を踏み出すことが大切だと思っています。 ーありがとうございました。 髙井明子プロフィール  1971年東京都生まれ。千葉県市川市で育つ。幼少期に1年間、カナダ・モントリオールで育つ。千葉大学で1年学んだ後、91年、米国のグリネル大学に編入学。卒業後、エイズ支援NPOぷれいす東京 、(公財)エイズ予防財団に勤務。東京大学大学院で国際保健を学び、博士課程中にJPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)の試験に合格し、2000年3月より国連NY本部に勤務。06年9月に国連人口基金ベトナム事務所へ異動。11年の東日本大震災をきっかけにセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンに入局。2012年に事務局次長を経て22年3月より事務局長、23年3月より専務理事・事務局長。

 第4回 病気や差別から子どもを守るために

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 編集長インタビュー(前編) 髙井明子さん 公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン専務理事・事務局長  子どもの権利を保障するために、日本をはじめ世界約110ヵ国で、緊急・人道支援や保健・栄養、教育などの分野で活動を行う非営利の国際組織、セーブ・ザ・チルドレン。今回は、公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの専務理事・事務局長髙井明子さんへのインタビュー(前編)をお届けします(編集部) マイノリティー体験と差別への気づき  ー現在の立場と活動内容を教えてください。  セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン事務局長です。世界的な連盟組織である「セーブ・ザ・チルドレン」に独立した団体として加盟しており、日本の事務局の運営と活動を統括しています。連盟全体で共通のミッションやビジョンを共有しつつも、国内の活動は日本の団体が独自に決定し、国外活動は連盟の枠組みの中で行っています。国内においては国内の子どもの課題解決、貧困問題解決、災害時の対応、防災などです。国内のNPOなどの団体を通しての活動、子どもの権利の啓発、海外に向けた施策に対する政府に対する政策提言なども行なっています。  ーカナダからの帰国生とのことですね。  6歳の時、父親の仕事で1年間カナダのモントリオールに滞在しました。現地の保育園に通いましたが、当時は英語もフランス語も話せず、言葉の壁に苦労しました。私自身は辛い経験はなかったものの、兄が公園で遊んでいる時にいじめや人種差別的な扱いを受けているのを目撃しました。マイノリティーであることということを経験しました。言葉が違うだけで差別されることがあることを知り、大きな衝撃を受けました。日本に帰りたいなと思いました。兄はよく覚えてなくて、まだいたかったと言っていたのですけどね(笑)  ー日本に戻られてからはどうでしたか?  小学校1年生の夏休みに帰って2学期から通いました。いじめとかなかったのですが。今度は日本でカナダから帰ってきたからカナダ語を喋ってとか言われましたね(笑)。小学校中学年くらいから近くの図書館で毎週10冊以上借りて読んでいました。そのなかにハンセン氏病の人たちが差別されていて、それに取り組んでいた方の本(『ばらの心は海をわたった ハンセン病との長いたたかい』岡本文良・作、高田三郎・絵)があったのです。自分にとっては病気の人が差別されるっていうのを知ったきっかけでした。  ーどういうふうに感じられたのですか?  たとえば風邪引いたりすると家族をはじめ周りが大事にしてくれるじゃないですか。この本を読んでびっくりしたことは、大変な病気に罹っているのに感染症だということで差別されるということでした。隔離され、療養施設があったということ。病気で差別されるということを知ったのがこの本だったのですが、びっくりしました。病気の時は体もつらいし、ずっと一人で寝てなくてはならないので寂しいですよね。この本には、家族がもう全く見舞いに来なくなるとか、見捨てられるみたいなことがたくさん書いてあって驚きました。  ーそれが現在の活動に至る原点ということになるのでしょうか?  そうですね。それと、さきほど述べたマイノリティーが差別されるようなこと、人が疎外されるというようなことですね。私は能天気なので、みんなで楽しくやろうよと思っているところに、そうじゃないということがたくさんあるのだなということを感じました。この本を読んで、それは子どもだけじゃなくて大人もやるのだと思いました。制度がそうなっている。そういう枠組みがあるのだということを知って衝撃を受けましたね。  ーどんな感じのお子さんだったのですか?  小学生時代は、多岐にわたる習い事や活動に熱中し、明るく活発な日々を送っていました。特に力を入れていたのが、金管バンドでの活動です。ブラスバンドでトロンボーンを担当したり、その他にもピアノや英語を習ったりと、様々なことに挑戦していました。  この時期に特に大きな影響を与えたのが、モントリオールから帰国後の体験です。海外滞在中に言葉が通じないもどかしさを経験したことから、「英語ができたらもっといろんなことができる」と直感的に感じ、英語学習に強い意欲を持つようになりました。具体的には、小学3年生頃からラジオ英会話で独学を始めたり、近くの英会話教室に通ったりして、積極的に英語力を身につけようとしました。将来、国際的な舞台で活躍するとまでは考えていなかったものの、「英語が話せたらいいな」という漠然とした思いがありました。  また、小学生の頃は言われるがまま児童会長を務めるなど、リーダー的な役割を担うこともありましたが、人前に立って話すことや、集団の先頭に立つことは得意ではなかったですね。 バブルに違和感、海外留学を決意  ーご家庭はどんな感じだったのですか?  両親ともに工学部出身という理系色の強い家庭で育ち、科学や論理的な考え方が自然と身につきました。父は食品工学の研究者、母も非常勤で実験を教える仕事をしており、幼い頃から研究や実験に囲まれた環境でした。しかし自分自身は、工学や大学教員の道には魅力を感じず、むしろ数学や幾何学、とりわけ立体を組み立てることに楽しさを見出していきました。その延長で、高校時代には、服のパタンナーや祖母菓子作りを教えていたことから料理・菓子の研究家といった職業に関心を抱いていたこともあります。  社会問題に関心を持つようになったのは小学生の頃からです。家族も同じように関心を持っていて、例えば母はフィリピンのネグロス島の子どもたちを支援していました。その影響もあり、世界や日本で起きている不平等などに自然と興味を持つようになったのです。 ただ、周りの友達や大人たちは、そうしたテーマを日常的に話すことはほとんどありませんでした。  普通の公立校に通いながら、様々な活動を続けると同時に、社会や教育に対する独自の視点を持ち始めました。当時の日本はバブル期でしたが、世の中のあり方や社会の構造に対して漠然とした「おかしい」という違和感を抱きました。特に、学校で蔓延していた「管理教育」については強い反発を感じていました。両親が教育問題に関心があり、家にそうした分野の本が多数あったことも影響しています。社会に対する感度が高く、自分なりの考えを深く掘り下げていく時期でしたね。   ー大学進学はどう考えられたのでしょう?  私は1989年に高校を卒業しました。バブル期で、大学生といえばサークルやアルバイトに熱中しているイメージが強かったですね。ただ、私は「楽しいことをしながら勉強もして、さらに社会のことについて語り合える場所」がいいと考えていました。   中学生の頃から、テレビや本を通じてアメリカの大学生活を知り、「向こうの学生は社会問題についても日常的に議論している」と感じました。特に米国にはソーシャル・ジャスティス(社会正義)を学べる大学が多いと聞き、小規模なリベラルアーツの大学に進みたいと思うようになったのです。  現在、私自身も大学で教えていますが、日本の学生は今でも社会的なテーマを日常的に語り合うことに抵抗があるように思います。もちろん、模擬国連や特定のサークルに参加すれば議論はできますが、普段の学生生活の中ではそうした機会が少ない。例えばSDGsといった言葉への理解は広がってきましたが、「では具体的に何をするのか」という議論の場は、まだ十分に整っていないと感じます。  ーそしてボストンでの出会いがあるわけですね。   米国の大学に入る前に実際に見学に行こうと思いまして、米国内をバックパッキングしたのですけど、その時、たまたまボストン子供病院に行って、HIV感染者のサポートをしておられる日本の新聞記者にお会いする機会がありました。その記者はボストンのリビングセンターというところでサバティカル的な感じで半年ほどボランティアされていたと思います。  1990年の時で、HIV感染症の治療薬はまだなかった頃です。HIV感染者の皆さんは、小学生の時に本で読んだハンセン氏病の人たちと同じ状況にあると思いました。病気で疎外される。病気というバックグランドが疎外要因になるという理不尽さ。これが、私がHIVに取り組み、現在も時々関わっている理由ですね。  国内の大学で1年学んだ後に、91年にアイオワ州にあるリベラルアーツのグリネル大学に編入学し、94年に卒業します。在学中もHIV陽性者支援のボランティア活動をしました。    (次号に続く) 髙井明子プロフィール  1971年東京都生まれ。千葉県市川市で育つ。幼少期に1年間、カナダ・モントリオールで育つ。千葉大学で1年学んだ後、91年、米国のグリネル大学に編入学。卒業後、エイズ支援NPOぷれいす東京 、(公財)エイズ予防財団に勤務。東京大学大学院で国際保健を学び、博士課程中にJPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)の試験に合格し、2000年3月より国連NY本部に勤務。06年9月に国連人口基金ベトナム事務所へ異動。11年の東日本大震災をきっかけにセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンに入局。2012年に事務局次長を経て22年3月より事務局長、23年3月より専務理事・事務局長。

 第3回 教育はすべての子どもたちの権利

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  子どもの権利を保障するために、日本をはじめ世界約110ヵ国で、緊急・人道支援や保健・栄養、教育などの分野で活動を行う非営利の国際組織、セーブ・ザ・チルドレンの活動を紹介します。第3回は海外事業部プログラム・コーディネーターの中村茜さんが担当します。(編集部)  はじめに  セーブ・ザ・チルドレンは、生きる・育つ・守られる・参加するなどの子どもたちの権利が守られる社会の実現を目指して活動しています。教育分野では、学習環境の改善、教員の能力養成、地域社会の意識向上、就学前教育の普及などを通じ、すべての子どもが質の高い教育を受けられるよう支援しています。  教育とは「学校に通う」「授業を受ける」だけではなく、子どもたちが「自分にも声がある」と気づき、その声を上げ、社会に参加する力を育む機会でもあります。私たちは、子どもたちが何を・どのような方法で・どのような環境で学ぶのかという視点から、子どもたちとともに本当に必要な支援を多角的に検討しています。 広がる学習危機  世界では今、紛争・気候変動・パンデミックなど、さまざまな危機が重なり、学習危機が深刻化しています。2025年1月時点で、学齢期の子どもは約2億3400万人いますが、そのうち約8500万人が学校に通えていません。また、通学できている子どもたちの中でも、初等教育終了時に最低限の読み書きができると見込まれる割合はわずか17%に留まります。難民・国内避難民として避難生活を送る子どもたちは年々増加しており、彼らは受け入れ先での学校・教員の不足や、言語やカリキュラムの違い、経済的困難などによって学ぶ機会を奪われています。 「学び」と「ウェルビーイング」  セーブ・ザ・チルドレンは、学習危機に対応するため、「質の高い学びの枠組み(Quality Learning Framework)」に基づいた教育支援を行っています。この枠組みが目指すのは、基礎的な学力(読み書きや計算)の習得と、心身ともに安全で健やかな状態(ウェルビーイング)の両立です。学力は、子どもたちが社会に参画し、人生の選択肢を広げるために欠かせません。そして、子どもたちが「自分は大切にされ、受け入れられている」「話を聞いてもらえる」と実感できること、そして社会情動的スキル(感情のコントロールや他者との協働といった非認知スキル) を身につけることも、学びと成長のために不可欠です。 誰も取り残さないために  私たちは、常に活動の中で「誰が参加できていて、誰が取り残されているのか」を問い続けています。障害・民族・言語・ジェンダー・性的指向・国籍・人種・貧困・宗教・文化的背景などにより、多くの子どもたちが今も学びの機会から排除されています。状況を改善するためには、まず差別や不平等の構造を含む障壁を分析し、子ども自身や保護者、教員、地域とともに解決策を考える必要があります。これは一部の子どもたちだけの特権ではなく、紛争や災害など人道危機の影響を受けた子どもたちを含め、すべての子どもに保障されるべき当然の権利です。 各国での教育支援事例 〈モンゴル〉  モンゴルでは、初等教育の純就学率は95%と著しく低くはないものの、障害のある子どもたちの多くが今も教育の機会から取り残されています。私たちは、親・養育者に子どもが学ぶ権利を伝え、学校に対しては、児童一人ひとりのニーズに応じた支援ができるよう設備の整備や教員研修、そして事業の成果が継続していくよう政策提言を行いました。私が出張中に出会った教員は、当初どのように指導したらよいかわからなかったものの、研修で多くのアイデアを得ることができたと言います。今では児童の個別のニーズに応じた学習計画・教材を作り、児童・保護者と相談しながら指導を進めているそうです。 〈カンボジア〉  カンボジアでは、学校での暴力や体罰について、セーブ・ザ・チルドレンの2013年の調査では73%の生徒が学校で少なくとも1回、なにかしらの暴力を受けたことがあると回答しました。こうした状況を受け、私たちは子どもたちが主体となって暴力のない学校づくりに取り組む活動を進めてきました。私たちの活動開始前、体罰を受けながらも学校側に取り合ってもらえなかったというキムさんは、活動に参加して子どもの権利、暴力とは何か、そして被害にあった場合の相談・通報システムがあることを知りました。匿名で投書できる意見箱が学校に導入され、キムさんが再び声を上げると、学校は対応に踏み切りました。学校を安全な場所にするために、他の生徒たちにも学んだことを伝えていきたいと話しています。 最後に  昨今の国際的な援助の削減により、セーブ・ザ・チルドレンが支援する180万人以上の子どもたちが学びの場を失っています。特に難民キャンプや避難民キャンプの子どもたちにとって、学校は学びの場であるだけではなく、食事や心理的サポート、安全な居場所を提供する重要な存在でもあります。ミャンマーから逃れ、バングラデシュの難民キャンプで暮らすサベラさんは、「私は授業で勉強したり学んだりするのが好きでした。突然、学習センターが閉鎖されることを知り、誰かが私から自由と幸せを奪い去ったように感じました。」と話します。 困難な状況下にありますが、私たちはすべての子どもたちが学び、自分の人生を切り拓いていけるよう、これからも活動を続けていきます。(中村   茜) (写真提供:Save the Children) プロフィール: 中村  茜(なかむら・あかね)  公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン...

 第2回 「子どものための心理的応急処置」について

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赤坂美幸さん セーブ・ザ・チルドレン、精神保健・心理社会的支援エキスパート  はじめに  前回の記事では、セーブ・ザ・チルドレンが災害などの緊急支援活動の中で実施する「こころのケア」について紹介しました。その中で、私たちは、自然災害などの出来事を経験した子どもたちが示す反応が徐々に落ち着いていくことや、子どもたちが前向きに対処できるよう支援する活動、メンタルヘルスなどの専門的な支援が必要な子どもには早急に専門家へつなげられるよう、活動を行っていることをお伝えしました。  今回は、これらの活動を実現するために、スタッフやパートナー団体、ボランティアが受講している「子どものための心理的応急処置」トレーニングを紹介します。 心理的応急処置とは?  心理的応急処置(Psychological First Aid=PFA)は、特別な心理的知識がなくても、災害などの影響を受けた人々を支援する際、被災者の尊厳、文化、能力を尊重した支援ができるよう、支援者が取るべき行動や姿勢を示したものです。人道支援の国際ガイドラインでも推奨されていて、2011年にはWHOなどがPFAの研修マニュアルを発行しました(出典1)。2013年には、セーブ・ザ・チルドレンが、WHO版のPFA研修マニュアルを基に、より子どもに特化した「子どものためのPFA」研修マニュアルを発行しました(出典2)。  現在、世界の人道支援現場でPFAレーニングを受講した支援者が多く活動しているほか、日本国内でも防災の取り組みとして研修を実施している自治体もあります。 子どものためのPFA研修とは?  子どものためのPFA研修では、ストレスを抱えた子どもが示す反応について、発達段階別に学びます。そして、PFAの行動原則「見る、聴く、つなぐ」と、各アクションのポイントについてロールプレイなどを交えながら学び、いろいろな場面で「見る、聴く、つなぐ」を使えるように練習していきます。 PFA(Psychological First Aid)と何か PFAには次のようなことが含まれます。PFAは、このようなものではありません。被災した人々に対し、• おしつけがましくない、実際に役立つケアや支援を提供• ニーズや心配事の確認• 水や食料、住居など、基本的ニーズの援助• 無理強いをせず、傾聴する•...

 第1回 子どもの「こころのケア」について

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赤坂美幸さん セーブ・ザ・チルドレン、精神保健・心理社会的支援エキスパート  子どもの権利を保障するために、日本をはじめ世界約110ヵ国で、緊急・人道支援や保健・栄養、教育などの分野で活動を行う非営利の国際組織、セーブ・ザ・チルドレンの活動を5回ほどに分けて紹介していきます。  案内するのはセーブ・ザ・チルドレンのスタッフの皆さん。第1回は精神保健・心理社会的支援エキスパートの赤坂美幸さんが担当します。(編集部)  はじめに  セーブ・ザ・チルドレンは1919年にイギリスのエグランタイン・ジェブによって創設された、民間・非営利の国際組織です。現在、日本を含む30ヵ国の独立したメンバーが連携し、約110ヵ国で子ども支援活動を実施しています。日本では1986年に公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが設立され、行政や地域社会と協力しながら国内外で活動を展開しています。  海外では、保健・栄養や教育分野での支援に加え、自然災害や紛争時の緊急・人道支援を実施しています。国内では、子どもの貧困や虐待の予防、災害時の緊急・復興支援を通じて子どもの権利を守る取り組みを行っています。こうした支援には、「こころのケア」も重要な要素として含まれています。 セーブ・ザ・チルドレンの「こころのケア」とは?  災害などの緊急時に「こころのケア」という言葉を耳にすることがありますが、国際的な人道支援のガイドラインでは「精神保健・心理社会的支援(MHPSS: Mental Health and Psychosocial Support)」と呼ばれています。この支援の目的は、被災者の心理社会的ウェルビーイングを守り、促進し、精神疾患を予防・治療することです(IASC,2007)。  心理社会的ウェルビーイングとは、身体的・精神的・社会的に健やかな状態を指します。そのため、「こころのケア」は、精神疾患の治療にとどまらず、被災者の生活環境の整備や、子どもにとって必要な遊びや学びの支援など、広範な予防的アプローチを含んでいます。セーブ・ザ・チルドレンは、予防的アプローチに重点を置き、災害支援における支援物資の配布、子ども向けの遊びや学びの支援、保護者向けの支援など、あらゆる支援活動の中に「こころのケア」の支援を組み込めるよう、組織として取り組みを進めています。 活動事例:Child Friendly Spaces  セーブ・ザ・チルドレンをはじめとする子ども支援団体は、避難所や難民キャンプで「子どもの居場所(Child Friendly...