Home コラム  第4回 病気や差別から子どもを守るために

 第4回 病気や差別から子どもを守るために

 編集長インタビュー(前編)

髙井明子さん

公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン専務理事・事務局長


 子どもの権利を保障するために、日本をはじめ世界約110ヵ国で、緊急・人道支援や保健・栄養、教育などの分野で活動を行う非営利の国際組織、セーブ・ザ・チルドレン。今回は、公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの専務理事・事務局長髙井明子さんへのインタビュー(前編)をお届けします(編集部)


公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン専務理事・事務局長 の
壑井明子さん 写真:Save the Children

マイノリティー体験と差別への気づき

 ー現在の立場と活動内容を教えてください。

 セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン事務局長です。世界的な連盟組織である「セーブ・ザ・チルドレン」に独立した団体として加盟しており、日本の事務局の運営と活動を統括しています。連盟全体で共通のミッションやビジョンを共有しつつも、国内の活動は日本の団体が独自に決定し、国外活動は連盟の枠組みの中で行っています。国内においては国内の子どもの課題解決、貧困問題解決、災害時の対応、防災などです。国内のNPOなどの団体を通しての活動、子どもの権利の啓発、海外に向けた施策に対する政府に対する政策提言なども行なっています。

 ーカナダからの帰国生とのことですね。

 6歳の時、父親の仕事で1年間カナダのモントリオールに滞在しました。現地の保育園に通いましたが、当時は英語もフランス語も話せず、言葉の壁に苦労しました。私自身は辛い経験はなかったものの、兄が公園で遊んでいる時にいじめや人種差別的な扱いを受けているのを目撃しました。マイノリティーであることということを経験しました。言葉が違うだけで差別されることがあることを知り、大きな衝撃を受けました。日本に帰りたいなと思いました。兄はよく覚えてなくて、まだいたかったと言っていたのですけどね(笑)

 ー日本に戻られてからはどうでしたか?

 小学校1年生の夏休みに帰って2学期から通いました。いじめとかなかったのですが。今度は日本でカナダから帰ってきたからカナダ語を喋ってとか言われましたね(笑)。小学校中学年くらいから近くの図書館で毎週10冊以上借りて読んでいました。そのなかにハンセン氏病の人たちが差別されていて、それに取り組んでいた方の本(『ばらの心は海をわたった ハンセン病との長いたたかい』岡本文良・作、高田三郎・絵)があったのです。自分にとっては病気の人が差別されるっていうのを知ったきっかけでした。

 ーどういうふうに感じられたのですか?

 たとえば風邪引いたりすると家族をはじめ周りが大事にしてくれるじゃないですか。この本を読んでびっくりしたことは、大変な病気に罹っているのに感染症だということで差別されるということでした。隔離され、療養施設があったということ。病気で差別されるということを知ったのがこの本だったのですが、びっくりしました。病気の時は体もつらいし、ずっと一人で寝てなくてはならないので寂しいですよね。この本には、家族がもう全く見舞いに来なくなるとか、見捨てられるみたいなことがたくさん書いてあって驚きました。


食の応援ボックスの活動。倉庫で物品を箱詰めする様子

 ーそれが現在の活動に至る原点ということになるのでしょうか?

 そうですね。それと、さきほど述べたマイノリティーが差別されるようなこと、人が疎外されるというようなことですね。私は能天気なので、みんなで楽しくやろうよと思っているところに、そうじゃないということがたくさんあるのだなということを感じました。この本を読んで、それは子どもだけじゃなくて大人もやるのだと思いました。制度がそうなっている。そういう枠組みがあるのだということを知って衝撃を受けましたね。

 ーどんな感じのお子さんだったのですか?

 小学生時代は、多岐にわたる習い事や活動に熱中し、明るく活発な日々を送っていました。特に力を入れていたのが、金管バンドでの活動です。ブラスバンドでトロンボーンを担当したり、その他にもピアノや英語を習ったりと、様々なことに挑戦していました。

 この時期に特に大きな影響を与えたのが、モントリオールから帰国後の体験です。海外滞在中に言葉が通じないもどかしさを経験したことから、「英語ができたらもっといろんなことができる」と直感的に感じ、英語学習に強い意欲を持つようになりました。具体的には、小学3年生頃からラジオ英会話で独学を始めたり、近くの英会話教室に通ったりして、積極的に英語力を身につけようとしました。将来、国際的な舞台で活躍するとまでは考えていなかったものの、「英語が話せたらいいな」という漠然とした思いがありました。

 また、小学生の頃は言われるがまま児童会長を務めるなど、リーダー的な役割を担うこともありましたが、人前に立って話すことや、集団の先頭に立つことは得意ではなかったですね。

バブルに違和感海外留学を決意

 ーご家庭はどんな感じだったのですか?

 両親ともに工学部出身という理系色の強い家庭で育ち、科学や論理的な考え方が自然と身につきました。父は食品工学の研究者、母も非常勤で実験を教える仕事をしており、幼い頃から研究や実験に囲まれた環境でした。しかし自分自身は、工学や大学教員の道には魅力を感じず、むしろ数学や幾何学、とりわけ立体を組み立てることに楽しさを見出していきました。その延長で、高校時代には、服のパタンナーや祖母菓子作りを教えていたことから料理・菓子の研究家といった職業に関心を抱いていたこともあります。

 社会問題に関心を持つようになったのは小学生の頃からです。家族も同じように関心を持っていて、例えば母はフィリピンのネグロス島の子どもたちを支援していました。その影響もあり、世界や日本で起きている不平等などに自然と興味を持つようになったのです。 ただ、周りの友達や大人たちは、そうしたテーマを日常的に話すことはほとんどありませんでした。

 普通の公立校に通いながら、様々な活動を続けると同時に、社会や教育に対する独自の視点を持ち始めました。当時の日本はバブル期でしたが、世の中のあり方や社会の構造に対して漠然とした「おかしい」という違和感を抱きました。特に、学校で蔓延していた「管理教育」については強い反発を感じていました。両親が教育問題に関心があり、家にそうした分野の本が多数あったことも影響しています。社会に対する感度が高く、自分なりの考えを深く掘り下げていく時期でしたね。 


鳥取での支援活動の様子

 ー大学進学はどう考えられたのでしょう?

 私は1989年に高校を卒業しました。バブル期で、大学生といえばサークルやアルバイトに熱中しているイメージが強かったですね。ただ、私は「楽しいことをしながら勉強もして、さらに社会のことについて語り合える場所」がいいと考えていました。 

 中学生の頃から、テレビや本を通じてアメリカの大学生活を知り、「向こうの学生は社会問題についても日常的に議論している」と感じました。特に米国にはソーシャル・ジャスティス(社会正義)を学べる大学が多いと聞き、小規模なリベラルアーツの大学に進みたいと思うようになったのです。

 現在、私自身も大学で教えていますが、日本の学生は今でも社会的なテーマを日常的に語り合うことに抵抗があるように思います。もちろん、模擬国連や特定のサークルに参加すれば議論はできますが、普段の学生生活の中ではそうした機会が少ない。例えばSDGsといった言葉への理解は広がってきましたが、「では具体的に何をするのか」という議論の場は、まだ十分に整っていないと感じます。

 ーそしてボストンでの出会いがあるわけですね。

  米国の大学に入る前に実際に見学に行こうと思いまして、米国内をバックパッキングしたのですけど、その時、たまたまボストン子供病院に行って、HIV感染者のサポートをしておられる日本の新聞記者にお会いする機会がありました。その記者はボストンのリビングセンターというところでサバティカル的な感じで半年ほどボランティアされていたと思います。

 1990年の時で、HIV感染症の治療薬はまだなかった頃です。HIV感染者の皆さんは、小学生の時に本で読んだハンセン氏病の人たちと同じ状況にあると思いました。病気で疎外される。病気というバックグランドが疎外要因になるという理不尽さ。これが、私がHIVに取り組み、現在も時々関わっている理由ですね。

 国内の大学で1年学んだ後に、91年にアイオワ州にあるリベラルアーツのグリネル大学に編入学し、94年に卒業します。在学中もHIV陽性者支援のボランティア活動をしました。    (次号に続く)


髙井明子プロフィール

 1971年東京都生まれ。千葉県市川市で育つ。幼少期に1年間、カナダ・モントリオールで育つ。千葉大学で1年学んだ後、91年、米国のグリネル大学に編入学。卒業後、エイズ支援NPOぷれいす東京 、(公財)エイズ予防財団に勤務。東京大学大学院で国際保健を学び、博士課程中にJPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)の試験に合格し、2000年3月より国連NY本部に勤務。06年9月に国連人口基金ベトナム事務所へ異動。11年の東日本大震災をきっかけにセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンに入局。2012年に事務局次長を経て22年3月より事務局長、23年3月より専務理事・事務局長。