Home コラム  第5回 病気や差別から子どもを守るために

 第5回 病気や差別から子どもを守るために

 編集長インタビュー(編)

髙井明子さん

公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン専務理事・事務局長



 子どもの権利を保障するために、日本をはじめ世界約110カ国で、緊急・人道支援や保健・栄養、教育などの分野で活動を行う非営利の国際組織、セーブ・ザ・チルドレン。9月号に続き、公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの専務理事・事務局長髙井明子さんへのインタビュー(後編)をお届けします(編集部)


公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン専務理事・事務局長 の
壑井明子さん 写真:Save the Children

当事者の言葉に圧倒共に声をあげること

 ーHIV陽性者支援のボランティア活動は、どのような内容だったのでしょうか。

 私が関わったのは、医療や制度に直接かかわる専門的な領域ではありませんでした。地域のコミュニティー活動を支えるような、日常の延長線上にある取り組みが中心でした。当時は大学院に通いながら、NPO「ぷれいす東京」(https://ptokyo.org/)の活動を手伝っていました。すでに治療薬は少しずつ普及し始めていたものの、偏見や差別は根強く残っていました。だからこそ、当事者自身が声をあげ 、仲間とつながれる場をつくることが非常に重要だったのです。私は資料作成や会議運営の裏方を担いながら、時にイベントでスピーチを聞き、当事者の言葉が持つ力に圧倒されました。日本国内の活動だけでなく、アジアのHIVコミュニティーを結びつける国際会議にも参加し、運動の広がりを肌で感じました。活動を続けるなかで、「支援する」ではなく「共に声をあげる」ことの意味を学びました。

 ー その後、国際機関に進まれますね。

 日本で政策分野の仕事に携わりたいと思っても、当時の私には資格も肩書もなく、なかなか機会はない、という気がしていました。27歳、専門職としてのキャリアはなく、就職口は特に探していなかったので。そんなとき、外務省が若手を対象に国連職員を育成する新しいプログラムを始めたと知りました。世界をこの目で見てみたい、現場に立って確かめたいという思いが募り、迷わず応募しました。運良く選ばれ、2000年から国連人口基金に勤務することになったのです。当初は3年間の予定でしたが、気づけば11年間。ニューヨーク本部に6年半、その後ベトナム事務所に赴任しました。

 ー業務内容はどのようなものだったのですか。

 私の肩書は「技術官」。聞き慣れないかもしれませんが、要はプログラムを調整するしたり、技術的な支援をする仕事です。予算管理や企画立案を進めながら、政府、NGO、現地スタッフ、国際機関など多様な関係者の意見を取りまとめ、合意を形成していく仕事です。華やかさはありませんが、私は人と人との考えをすり合わせる地道な作業にやりがいを感じていました。会議室での議論はしばしば長時間に及び、時には激論になることもありました。それでも最後には「あなたがいて助かった」と言われる瞬間があり、それが自分の支えとなりました。

 ー 国際的な職場で苦労はありませんでしたか。

 言葉の問題は常にありました。共通言語は英語ですが、ネイティブはむしろ少数派。相手がどんな文化的背景を持ち、どういうニュアンスで話しているかを汲み取らなければ、同じ英語でもまったく違う意味になってしまう。初めは戸惑いましたが、やがて流暢さより「説得力」が大切だと気づきました。ゆっくりでも、筋道立てて話す方が人に届く。語学力不足より、どう伝えるかを磨くことが重要だったのです。

 ー 特に印象に残っている経験はありますか。

 ベトナム勤務のときのことです。国連のインターナショナル・スタッフ(国際職員)として赴任しましたが、同僚のベトナム人スタッフから「アジアの仲間」として受け入れられたのが嬉しかった。食事の場に招かれ、ベトナム語が分からないのに、なぜか仲間に入っていたんです。ヨーロッパ出身の同僚には得られない経験だったと思います。彼らから「あなたならわかる」と声をかけられたとき、文化的な近さが信頼につながるのだと実感しました。これは日本人として働く大きな強みでもありました。


ウガンダでセーブ・ザ・チルドレンの支援を受ける保護者と話す様子

子どもの言葉が社会に届く瞬間

 ー2011年、東日本大震災が起きます。

 当時、私はイエメン事務所に赴任していましたが、2010年末からアラブの春が始まり、治安悪化で国外退避が勧告されていました。ちょうど休暇で滞在していたタイで震災の報道を目にしました。東北の町が津波で一瞬でのみ込まれる様子に言葉を失いました。「いま自分にできることは何か」と、すぐに帰国を決意しました。

 ー セーブ・ザ・チルドレンに連絡されたのはなぜですか。

 1995年に阪神淡路大震災が起きたとき、ボランティアとして活動しました。そのとき、海外からの支援をどう調整するかが一つの課題だったことを覚えていました。国連で培った調整力を日本の緊急支援に生かせるのではないか。そう考え、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンに「何か手伝わせてほしい」とメールを送りました。結果的に、海外事務所と日本スタッフの橋渡し役として参加することになったのです。国際支援団体が入ると、日本的なやり方との間で誤解が生じやすい。そこをうまくつなぐのが私の役割でした。

 ー活動のなかで最も大変なことはなんですか。

 人々の「声」をどうすくい上げるかです。日本では「こんなことを言っても仕方がない」と、思いを口に出さない人が多い。しかし支援の形は、その声を聞かなければ見えてきません。もちろん全ての要望を叶えることはできません。けれど、意見が採用されなかったからといって、人そのものが否定されたわけではない。そこを丁寧に伝えながら、安心して声を出してもらえる環境を整えることですね。

 ーやりがいを感じる瞬間はどんなときですか。

 やはり子どもたちの声を直接聞けたときです。能登半島地震では、被災した子どもにアンケートを実施し、その思いを集めて社会に届けました。東日本大震災でも同じ取り組みをしました。「家がなくなった」「友達と会えない」「将来が不安」——そうした声は大人が代弁するのではなく、子ども自身が発信することに意味があります。私は常に裏方ですが、そのプロセスを支え、子どもの言葉が社会に届く瞬間に立ち会えることが最大のやりがいです。

 ーHIVの活動と、子ども支援の仕事はつながっているのでしょうか。

 強いつながりを感じています。HIVの現場では「当事者参加」が何より大切だと学びました。同じように、子どももまた当事者です。権利を持つ主体として、子ども自身が社会に声を届ける。その仕組みを整えることは、私の原点と直結しているのです。

 ー最後に、読者へのメッセージを。

 社会を変えるためには声を上げることが必要だと思います。大切なのは、まず「声をあげる」ことです。自分の経験や立場から語ることが、必ず社会を少しずつ変えていきます。少しずつでも社会が変わるだろうと、そう信じて一歩を踏み出してほしい。たとえ小さな一歩でも、「声をあげる」ことで社会を少しずつ動かす力になります。勇気を出して、まず一歩を踏み出すことが大切だと思っています。

ーありがとうございました。


髙井明子プロフィール

 1971年東京都生まれ。千葉県市川市で育つ。幼少期に1年間、カナダ・モントリオールで育つ。千葉大学で1年学んだ後、91年、米国のグリネル大学に編入学。卒業後、エイズ支援NPOぷれいす東京 、(公財)エイズ予防財団に勤務。東京大学大学院で国際保健を学び、博士課程中にJPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)の試験に合格し、2000年3月より国連NY本部に勤務。06年9月に国連人口基金ベトナム事務所へ異動。11年の東日本大震災をきっかけにセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンに入局。2012年に事務局次長を経て22年3月より事務局長、23年3月より専務理事・事務局長。