Home インタビュー 一人ひとりと向き合う仕事を求めて【前編】

一人ひとりと向き合う仕事を求めて【前編】

圓岡悦子さん

(鍼灸師・看護師、クリアースプリング鍼灸院経営)


 シルバースプリングにクリアースプリング鍼灸院を昨年開設した鍼灸師の圓岡悦子さん。ここに至るまでの道のりを訊いた。(聞き手・本紙編集長武末幸繁)


看護師だった25歳の時
赤十字での活動が転機に

 ー日本で看護師だったそうですね。

 はい。私は山口県山口市生まれですが、地元の高校を卒業後、看護学校に入り看護師になりました。看護の道を選んだ主なきっかけは、高校卒業前、祖母が末期癌の診断を受け、闘病中の祖母の苦しみを、何とか和らげてあげたいと強く感じたことです。また、背景には、私が中学校の頃に母が准看学校に通い始め、資格を取って准看護師として働きながら、私たちを育ててくれたということもあると思います。

日赤病院での新米看護師時代

 看護学校卒業後、地元の日赤病院で看護師として働き始めました。そして1992年、25歳の時、日赤の本社からスペインのセビリア万国博覧会、国際赤十字・赤新月パビリオンでのボランティア募集のチラシが回ってきたのです。まさかとは思いながら思い切って応募したところ運よく選ばれたのが、すべての始まりだった気がします。

 参加には、最低限英語が喋れることが条件だったので、出発に向けて一生懸命勉強しました。それでも、実際にその生活に飛びこんだ時は苦労しました。ユースホステルで生活を共にしたのは、世界各国から集まった100人のボランティアでした。最初のうち、言葉が聞き取れないのが何より辛かったです。大勢の中にいても孤独を感じることも多くありました。そうするうちに、少しづつ馴染んでいき、2か月間の滞在中、なんとかコミュニケーションが取れるようになりました。

 セビリア万博での活動は、世界各国から訪れた一般人に国際赤十字赤新月連盟と、赤十字国際委員会の理念や活動を広める仕事でした。パビリオンの前で、歌やパントマイムを通して活動を紹介したり、パビリオン内にお客さんを案内したりしました。

スペインのセビリア万博にて

 この企画のもう一つの目的は、共同生活とグループ活動を通して、ボランティア同士がつながりを強め、国際協力の必要性を身近に感じ、将来の活動に生かしていくことだったと思います。私も実際、すごく感化されました。一緒に生活する同年代の仲間達から、それぞれの母国での紛争や、厳しい貧困の状況などの話を直に聞くことは、ニュースを見るよりも格段に現実的で、身に迫るものがありました。将来私も、最低限の安全や健康も保障されていない国々の人の為に、何かをしてみたいという気持ちが高まりました。

 帰国後、日赤の本社で国際救護員としてのトレーニングを受けて、派遣員として登録しました。その後、実際に派遣の依頼が来て1993年12月から翌年5月までの6か月ほど、スリランカに公衆衛生の仕事で派遣されました。私は、コロンボにあった連盟代表部に所属し、保健代表(プライマリーヘルスケア担当)として、仕事をしました。直接の上司はフィンランド出身の方でした。仕事は基本的に英語で行いました。地方を訪ねる時は、その地域の赤十字支部の職員、地域保健委員の方たちと協力して仕事をしていましたので、その方たちが現地語との通訳も兼ねてくださいました。

 ー公衆衛生の仕事とはどのようなものだったのですか。

 私たちはプライマリーヘルスケアというプロジェクトに携わっていました。そのプロジェクトでは、スリランカの中でも特に貧しく医療を受ける機会の少ない36地域が選ばれていて、その地域の住民の健康増進を促すのが目的でした。その為、安全な飲料水が手に入るように、コミュニティーの井戸を作ること、各家庭にトイレを設置することなどをはじめ、あらゆる具体的な企画がありました。知識普及も重大な要素で、家庭訪問や母親学級なども企画に含まれていました。

 ところが、これらの企画の進行が滞っているのが問題でした。私の主な仕事はスリランカの各地に散在する、プロジェクト対象地域を訪ねて行って、企画の進行状況の把握と停滞の原因の調査をして、代表部に報告することでした。対象地域はコロンボから、遠いところだと車で9時間かかるところもあり、私はドライバーと二人だけで、遠距離の旅を繰り返す日々を過ごしました。時には、紛争地域内まで足をのばすこともありました。

 難しかったのは、地域のスタッフやボランティアの活動意欲の低下でした。企画の進行中、予算などの問題が生じて計画倒れになり、スタッフが失望するケースが少なくないのも一つの理由でした。私は地域で調査した結果をこまめに代表部に報告しました。代表部ではそれを一つ一つとりあげ、解決方法を模索し、企画の調整をしてくれました。その結果、解決策や新たな援助が地域に届くにつれてプロジェクトの滞りが少しづつ改善していきました。

 こうした、調査、報告、会議、問題解決、地域への支援という一連のサイクルを繰り返す経験を通して、私は人々の健康増進への意欲づくり、意欲維持について深く考える機会が与えられた気がします。そのことが、後になってスクールナース、地域保健、最終的には鍼灸師の仕事に携わっていく上での基盤になったと思っています。

米国に行くことを決意
母親に助けられ無事卒業

 ー日本に戻られてからはどうされたのでしょうか。

 スリランカに滞在中、将来も同じような仕事を続けたかったので、上司に相談したところ、彼女は、看護、または公衆衛生や国際保健の分野で学士、さらには修士を取ることを勧められました。また、英語で勉強できる場所がいいともアドバイスしてくれました。実際に、スリランカでの仕事は、相当量の報告書を英語で書かなければならず、辞書を引きながら、睡眠を削っての報告書作成は、かなりの苦労でした。自分でも、語学力を磨いて、より良い仕事ができるようになりたいと思っていましたので、その頃から留学のことは考えていました。

 ポストミッション・インタビューではジュネーブの国際赤十字赤新月連盟本部にも行きました。本部の方も親身になってアドバイスをしてくださいました。とは言え、日本に帰った時点では、留学とは夢のような話でした。日赤病院で働きながら、2年間かけて地道に準備をしました。

 インターネットもなかった時代なので、どこから手を付けていいのかもわかりませんでしたが、とりあえず書店で留学マニュアルを手に入れました。あとは、ジュネーブで勧められた大学や、紹介していただいた人物に、手書きの手紙も国際郵便で送りました。今の時代では、信じられないような話なのですが、日数がかかっても丁寧に手書きでお返事を下さった方が何人かいらっしゃり、そうしたことが、くじけそうになった時の支えになりました。

 最終的にはまずはアメリカに行こうと決心し、最初はUDC(ザ・ディストリクト・オブ・コロンビア大学)から始めました。1学期終えたところでアメリカ・カトリック大学に編入しました。条件がそろい次第、試験を受け、こちらのRN(レジスタード・ナース)という看護師の免許を取得しました。その後、バージニアのメリーマウント大学の看護学部に編入して1999年に卒業しました。

 ー留学中の生活費はどうされていたのですか。

 主には母が助けてくれました。私の留学に関しては、不安や迷いもあったと思いますが、少ない収入をやりくりして、奨学金を借りたり返したりしながら援助してくれました。私も当時、日本のグッズを売るお店で働いたり、ベビーシッターをしたりして、わずかな収入を得て生活の足しにしていたのですが、母の援助がなければあの頃の生活と大学卒業は実現しなかったし、今の私もなかったと思います。母にはとても感謝しています。(以下、次号に続く)


圓岡悦子(まるおか・えつこ) プロフィール

 1966年、山口県山口市生まれ。1988年、山口赤十字看護専門学校卒業。看護師として地元の日赤病院に勤務。1992年のセビリア万博で国際赤十字のボランティア活動。国際救護員としてのトレーニングを受け、93年には公衆衛生の仕事でスリランカに半年間派遣される。96年、米国に留学し、メリーマウント大学を99年に卒業。看護学 学士号取得。ジョンズ・ホプキンス病院勤務を経て、モンゴメリー郡の学校保健課に入りスクールナースを12年間務める。その後、3年半、学校保健課のナースマネジャーとして勤務、3年間地域保健課勤務を経て、2019年にメリーランド・ユニバーシティ・オブ・インテグレーティブ・ヘルス(MUIH)に入学し鍼灸や東洋医学を学び、鍼の修士号取得。卒業後、23年にシルバースプリングにクリアースプリング鍼灸院を開設。家族は夫と息子一人。

鍼灸院のウェブサイトはwww.clearspringacupuncturemd.com